「クラインの壺 (講談社文庫)」

 もう、最初っから困りました(笑)。いきなり、切羽詰まった状態から物語が始まります。私、苦手なんですよね、どきどきハラハラするのが(^^;)。

 なんていうか、主人公に不幸や災難が降りかかるということが最初っから分かっている、ということに耐えられない。突然不幸に見舞われるのは、“事故”だからしょうがないけど、「ドラえもん」ののび太のように、そういう行動をしていると痛い目に遭う、ということが分かっていながらそういう行動をとってしまう人とか、本作のように、はなから主人公に災難が降りかかっていて、どうして今そういう状態なのかを次から説明してくれるのだけれども、それがもう“遭ってしまった災難”以外のなにものでもない、というのが分かり切っていたりとおか、そういうのがダメなのです(分かりますか?^^;)。次に何が起こるか分からない、というのは全然平気なんですけどねえ。

 ああ。だからかもしれません。「コロンボ」とか「古畑任三郎」とか、最後には犯人は絶対捕まるのが分かっているので、犯人に肩入れできない。

 言い換えれば、内容はどうであれ、結末が分かってしまっている、ということですね。えーと、でもそうすると、ミステリーなんてのは全部そうだよなあ。必ず事件は起こるし、事件が起こったらたいてい探偵役が登場するし、探偵役はちゃんと事件を解決するし、そうすると必ず犯人の罪は暴れることになる。…何が違うんだ。

 例えば。罪が暴れることが分かっていても、主人公が必ず痛い目を見るとは決まっていない、からかなあ。多分、ここでは“主人公”と“必ず”という言葉が大事なんですね。ストーリーの性格上、結果的(最終的)に主人公が痛い目を見てしまった、という物語は大丈夫です。読み始めから、それが分かるわけではないので。そうだそうだ。多分そうだな。「ドラえもん」は必ず主人公であるのび太が痛い目に遭うじゃないですか。「クラインの壺 (講談社文庫)」だって、最初っから主人公は切羽詰まっているので、そういう状況に陥る“何か酷いこと”が起こった、ということです。「コロンボ」や「古畑任三郎」も、主人公であるところの犯人は、最終的には必ず捕まります。だから私は、犯人が主人公であるとは思っていないのですね(笑)。主人公はあくまでも、捕まえる方。そうじゃないと、見れないんだ(^^;)。…まあ、自分の性格の解析はここまでにして。

 というわけで、変な汗をかきながら(笑)、どきどきハラハラしながら読みました。そんな私を知ってか知らずか、あの結末。悶えるっちゅーねん。夢落ちじゃないだけましだけど(や、褒めてます)。でも、紙一重だあ(^^;)。まあ、落ちてるというか落ちてないというか、このあたりを詳しく書くとバレちゃうので控えますが。

 えーと。さっきから書いている部分は主線ではなく、装飾みたいなところでしょうか。ストーリーとしては、むちゃくちゃ面白いですよ。次の展開がまったく読めない。次を少しでも想像する隙すら与えてもらえなかった感じです。聞くところによると、この作品は“井上夢人”の色が濃く出ているようですね。さすれば、井上作品がどんなものか分かろうというもの。何作か積んであるので、おいおい読みましょう(^-^)。