「クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子 (講談社ノベルス)」

 “戯言遣い”って、ざれごとなのね。たわごとではなく。そこに、案外大きな違いがあって、表面的にはさらっと読めて結構楽しいのだけれども、もっと奥深いところではとてつもないモノガタリが展開されていたりするわけなのですね。で、どちらかというと、私はまだそこまで到達できてはいないのですが(^^;)。

 ただ、ようやく3冊目にして、その片鱗が見えてきたかな、と。

 いーたんは“戯言遣い”などではなく、そして作者の西尾維新は、相当の“日本語遣い”なのだと思われます。ま、そうでなければ戯言なんて使役できないんですけどね。

 ミステリー作家の中で、とりわけ北村薫はむちゃくちゃ“美しい日本語”を使う人なのです。「空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)」から始まる、《私》と円紫さんシリーズにそれは顕著で、日本語がこんなにも美しいものだったかと感動するほど。そのうえ、落語に代表されるような日本の文化もそれはそれは大切にしていて、ミステリーとしてはもちろん、あらゆる意味で“日本を代表する作品”、といっても過言ではないと思ってます。

 一方西尾維新は、北村薫のような“美しい日本語”ではないけれども、違った意味でまた“美しい日本語”なわけですよ。本格ミステリーらしい日本語、と言い換えてもいいのかも。優美な美しさではなく、心地よい美しさ。形式美といってもいい。ここにそういう言葉をそう置きますか、という大胆さが小気味よい。

 そういう点を踏まえた上で再読してみると、また面白い発見があるかも。とは思っているのですが、まずはシリーズを最新作まで追いかけていかねば。ちょっと気合いが入ったのでした(笑)。