御手洗潔が映像にならないワケ。

 「御手洗潔の挨拶 (講談社文庫)」に、“新・御手洗潔の志”というタイトルで、島田さんの言葉が載ってます。1999年改訂なので、それより以前に読んだ方はご存知ないかもしれませんね。ここでは、どうして御手洗潔のシリーズを映像化しないのかについて書かれてありました。

 先日、吉敷シリーズ全作品をドラマ化するということで、その第1弾として「月曜ミステリー劇場 警視庁三係 吉敷竹史シリーズ 寝台特急はやぶさ」1/60秒の壁」が放送されまして、その際にいっとき話題になりましたね(どこでだ(笑))。

 まず、吉敷シリーズ全作品をドラマ化すると、あんな作品もこんな作品も映像で見られるのか。あんなトリックやこんなトリックはどうやるんだ。というようなこと。それと同時に、御手洗潔は映像にならないのか、という話題が当然出てきます。どこかで、海外でならOKだという噂も聞きましたが、本当のところはそういうものでもなさそうです。

 簡単に言ってしまうと、島田さんと製作側の“日本人観”がまったく違うことがいちばんの原因のようです。御手洗潔という人間を、島田さんはどうい風に位置づけ、どういう風に描いてきたか。その辺を踏まえた上で映像化できるという確証がない限り、無理でしょう。というようなことでしょうか。

 小説と映像作品は別物。とは言っても、その小説のタイトルを冠し、主立ったキャラクターを使うのであれば、やはり押さえるべきところは押さえてもらわないと、という考えはあると思うのです。例えば、「リング (角川ホラー文庫)」の原作で浅川は男性だったにもかかわらず、映画では松島菜々子がやっていたけれども、“ビデオテープ”を恐怖の象徴とするという意味では、小説も映画も同じであった、とか? 例えば、山村美紗のキャサリンシリーズでは、本来キャサリンアメリカ副大統領の娘で、当然アメリカ人なんだけれども、ドラマではかたせ梨乃がやってて(役名は希麻倫子=きあさりんこ、でキャサリン(笑))、京都を舞台に“推理する”ところくらいしか同じじゃないけど(狩矢警部はいる(笑))、これはこれで、舞台と謎解きがそろっていればだいたいOKな感じだし、とか? 例えば、「富豪刑事 (新潮文庫)」は設定しか同じじゃないよ!(笑)とか? でも、設定だけ同じにしたまったく別物でも、というかだからこそ、人気のシリーズもあるでしょうし。

 まあいずれにしろ、どちらが良くって、どちらかが良い。などということは決してなく。結局のところ、どれだけ自分が気に入るか、だけなんですけどね(笑)。ちなみに、鹿賀・吉敷は半分OK(もっと若い人かと思っていたので)、キャサリンはちょっとやだ(もともと原作もそれほど好きではないし)、フカキョン・神戸美和子は…まったく別物だと思っているので、どちらでもなし(笑)。